社会から人を追いやるのは誰?社会不適合者を作り出すのは社会適合者のあなた。

毎朝Newspicksでニュースをチェックしているのですが、先日興味深い記事を見つけました。

この記事を読んで、僕は変な感情を抱いた。どちらかというとネガティブな黒い感情だ。この記事に出てくる松谷知直くんという少年は文字などの読み書きがうまくできない障害があって、周りにいる大多数の生徒たちと同じレベルで学ぶことができないそうだ。詳しくは上記の記事に一旦目を通して欲しい。

障害を乗り越えるための努力が否定される社会

彼は自分自身の障害を理解しており、故に自分なりの学習方法を模索し、周りの友達に追いつけるように努力をしていた。紙と鉛筆じゃダメだから、iPadなどのデジタル機器を使って学習する方法をとったわけだが、これを学校や周りの生徒たちが許さない。

でもそれがダメだと学ぶことができない。ちゃんと勉強をしたい故にとった方法なのにそれを否定され、周りと同じようにすることを強要される。

 「ちゃんと勉強しろ」のちゃんとってなんだ?

ちゃんと勉強しなさい

と大人たちはいうが、ちゃんと勉強できる環境を整えてる大人はどれだけいるのだろうか?ちゃんとの定義も人によって違うし、親子でも違う。そうやって言われることでやる気をなくす子供もいれば、言われないとできない子供だっているわけだ。

引きこもりに関して言えば、僕のようにポジティブすぎる感情を抱いて好き好んでこの生活をしている人間もいるけど、おそらくほとんどの引きこもりと呼ばれる人たちは、好きで引きこもりになっているわけではないのだと僕は思っている。誤解を恐れずに言えば、引きこもりは別に本来引きこもりでもなんでもなくて、周りの人たちに勝手に引きこもりにされてしまったのだと感じています。

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社会不適合者とは?引きこもりとは?そもそも社会とは?

引きこもりはさらに大きなくくりにすると「社会不適合者」と呼ばれます。ニートしかり。障害者しかり。しかしこの社会不適合者という概念そのものがすごくファジーなものであると思うわけです。そもそもこの「社会」とは一体なんなのか?

世間様では、社会の定義はおそらく、ちゃんと学校や会社などに行き、世の中の大多数の人が足並み揃えて歩いているレールやルールに則り生きることと考えられているのでしょう。しかしこの俗に言う社会は、そもそも誰が作り出したものであって、本当に正しいものなのだろうか?

単純に多くの人が共通して歩む人生を社会と呼ぶのであれば、こんなつまらない概念はない。そしてそれに馬が合わない人を不適合者というレッテルを一方的に貼る社会はとてもじゃないけどいいものに思えない。

そもそも全員社会不適合者だということ

社会という概念は千差万別だ。国やコミュニティが違えば社会の概念や根幹にあるものも変わる。学校がない地域なら、学校に通うことの方が社会不適合的だ。牛や豚が食えない国では、日本人のようにそれらを食う文化の人間ほとんどが根本的には社会不適合者となる。よってそもそも論として社会不適合者という概念なんてものはあってないものではないか?

そうやって自分たちとは違う世界に生きる人間を「社会不適合者」と呼ぶことで、自分たちは正しいんだ!と主張したいだけに感じる。

「社会」が必要以上に圧迫し、引きこもりのような社会不適合者を作る

時に社会は必要以上に僕たちを圧迫してきます。周りがやっているんだからお前もやるべきだ…なんでできないんだ…なんでわからないんだ。と圧力をかけてきます。どうしてもできないのに、「頑張れ」とか「みんなできるんだからできる」とか。できるならとっくにやっているし、頑張ってできるならもう頑張っているわけで。

朝起きれない人でも、本当に起きれない体をしている人だって中にはいるし、普通の人より睡眠をとらないといけない体の人だっているのに、社会はそのような仕方のない都合はいつだって無視をして一方的に押し付けてくる。

その押し付けに耐えられなくなって離脱した人をこんどは「社会不適合者」などと悪者扱いしてさらに価値観を押し付けてくる。そしてもう戻ってこれないくらいに追い詰めていく。

社会不適合者を作り出すこの社会は「許容範囲」が狭い

人は千差万別であって、全く同じ人はいない。けれども社会は全員に同じになることを求めてくる。学校での勉強方法だって、紙とノートが鉄板になっているが、iPadやノートPCを使ってもいいのではないだろうか。目的は「学ぶ」ことであって「みんなと同じことをする」ことではないはず。制服だってそもそも着る意味をあまり感じないし、通学したくない人は在宅で学ぶことも現代だったらできるはず。

そういった「許容範囲」が広がれば、そもそも障害とか不適合とかそういう概念はなくなっていく。それぞれがそれぞれの手段で目的を果たすことができるからだ。

社会に適合するのではなく、社会が適合してくる文化を作ろう

社会に適合させる文化だと、そこに適合できない人は障害者だとか不適合者だとか呼ばれるようになる。しかし千差万別を許容する文化、つまり社会がその人に合わす文化であれば、そういった概念はそもそも生まれない。現代のテクノロジーがあれば、それも可能なはず。「学び方」も「働き方」もアメーバのように形を変えられるはずだ。

誰が引きこもりやニートを追い詰めているのか?

これはまぎれもなく他人や環境である。よく社会不適合者が社会不適合者である原因を、その人自身にあるという人がいるが、これは少し違うと思う。もちろん自分の問題もあるだろうが、まぎれもなく第三者が原因であることの方が多い。

親や教師、友人含めてだ。当人の声を聞くこともせずにないがしろにした挙句、いざ問題が起こると今度はやたらと干渉してくる。

どうしたの?なんでも相談しなさい。私はあなたの味方だよ

と表向きはいってくるけど、本気で心からその人と向き合おうとする人はいない。話は聞くが、自分の許容範囲を超えているとそれを突っぱねて自分の主義主張をまくしたてる。

私は今までこうしてきたからあなたもするべき。誰々さんはこうだよ。
私はこう思うな。そんなことでいいの?将来後悔するよ?

自分が正しいと思う価値観に当てはめて、言い返してくる。当事者が訴えかけていることの真意を理解しようとする人は少ない。そんなやりとりは不毛なんだ。そんな不毛なやりとりをしているうちにどんどん本人は追い詰められていく。その干渉はプレッシャーでしかなく、ただの迷惑行為なのだ。

社会からはみ出ることをよしとする社会を作ろう

本来ルールというのは最低限の非人道的なことをしないために定めているものである。明らかな犯罪などを犯すことのないようにするのは大事だけど、縛り付けすぎる故に犯罪に手を染めることもある。縛り付けすぎは良くないのだと思う。浮気を禁止されればされるほどなぜかしてしまうのと似ている。

この社会はまさしくそうで、あーだこーだ縛り付けすぎるのだ。多少はみ出たとしても、それでうまく回るならそれでいいじゃない。学び方が違くても、働き方が違くても、最終的な目的が果たせれば問題ないだろう。会社は利益を上げること。学校は学ぶこと。これさえできればその方法はなんでもいいのではないか?

そうやってはみ出ることを許容すればもっと能力も伸ばせるし、誰もが自分らしく生きることのできる社会になる。障害や、社会不適合者という概念すらなくなる。本当の意味での「みんな違ってみんないい」社会の形成ができる。

この社会を救うのは肯定的な無関心

ある意味「他人には他人の生き方がある」と軽い無関心でいることが、この現代社会の生きにくさを払拭するきっかけになる。現代は他人に関して過干渉しすぎなんだよね。だから自分と感覚の違う人を「社会不適合者」として社会のすみにおいやろうとする。

もっと肯定的な無関心さを人はもつべきだ。

>>肯定的などうでもいいが人生を楽にする

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