「自分探し」という無意味な自己満の旅はもうやめよう

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最近流行ってますよね。「自分探し」って。若者だけでなくなんでか大人にまで。本でもそういうの多いですよね。でも、ぼくはその「自分探し」なんてクソの役にも立たない無駄なものだと思ってます。

自分探しの旅は無意味。その先に本当に自分があるの?

自分探しの旅

とか流行ってますよね。海外放浪したり、なんか一生懸命セミナーや本読んで「自分とはなにか?」を探したり。ぼくの知人でも何名もいます。けど、けどさ旅の先に自分はいないよね。いるはずがない。

いや、旅して見つかるヒントはあるのかもしれないけど、ヒントだよね。確信的な自分はいないよね?タイに旅して、そこで「ぼくは本当のあなたです」「やっと見つけた…本当のぼく…」なんて感動の再会みたいなのはないでしょ。

そこにあるのはタイの土地であって、タイであれこれ考えてる自分がそこにいるだけなんですよね。ただ考えるフィールドがタイになっただけなんすよ。そもそも、「自分」という存在を探すのって精神世界のことですよね??それがなんで旅したら見つかるのさ。と冷静に突っ込みたい。それ単純に旅費を使ってるだけでしょ。

自分探しは無意味。そもそも「自分」なんてない

われ思う、故に我あり

という言葉があるけどさ、これも違うと思うんだ。確かに自分がそこにいる…と信じることで自分の存在は肯定されるんだけれども。その理論でいうと「自分探し」ってのはただの思い込みなんだよね。

自分探して「よし、本当の俺はこうだ!」なんて思っても、それは自分で自分を都合よく解釈してるだけなんすよ。それは自分が作り出した偶像っすよね。

ぼくは思う。

他が思う、故に我あり

と。自分の存在を認識するのも、自分とはどんなやつか?を設定するのも他人だよね。だってさ、ぼくが思うぼくと、この記事を読んでるあなたのイメージするぼくは違うでしょ?この記事はおそらく何千人かが読むんだろうけど、おそらくそれぞれの読者が作り出す「ぼく像」があるはず。それはおそらくほとんどが「全く違うぼく」なんですよ。

ある人は布団でうずくまるぼくを考えるかもしれない

ある人は鼻毛の出てるぼくを思うかも

ある人はぼくも竹野内豊ばりのイケメンと思うかも

ある人はノンスタイル井上を思うかもしれない

どれもぼくであって、ぼくではない。だけどその人にとってそれがぼくなんだよね。もしかしたら、だれもぼくの存在を認識してないかもしれないのだよ。

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自分探しをしたって本当の自分はどこにもいない

つまり、本当の自分なんてどこにもいなくて、それは自分の中にもいなくって。道行く人のなかでぼくを認識した人のイメージがぼくを想像して創造してるんだぞ、と。そんだけファジーで不安定なのが「自分」という存在

上の自分探しの中で自分が見つけた偶像も、他の誰かがそう思わなければそれは偶像の域すら越えないわけです。例えば、ぼくが思う孫正義さんと、あなたが思う孫正義さんは違うはず。で、世間が作った孫正義さんとも違うし、孫正義自身が思う孫正義さんも違うはず。

でもそういう違った孫正義像がいろいろ重なって、今のあの孫正義さんが出来上がっているわけ。もしかしたら、誰かにとって孫正義の髪の毛は後退してないかもしれないぞ。後退してると認識してる人の絶対数が多いから、あのお方の髪は後退してるわけだ。人によってはふさふさに見えてるかも。(他が思う、故に我あり)

でも孫正義さん自身は「髪の毛が後退してるのではない。私が前進しているのだ」なんだよ。孫正義さん自身のなかではそうなんだよ。(我思う、故に我あり)

ここでもうギャップがあるんだよ。どっちも孫正義さんだけど、どっちも違うわけ。どっちが本当の孫正義さんかなんてだれもわからないの。他人の意識する孫正義と、孫正義が思う孫正義が完全一致した時に、それは本当の孫正義の姿なんだろうね。

自分探しは無意味。「自分」という存在には解がない

つまり、自分を探したところで「自分とは何者か?」という命題に解はでないわけ。そこで見つかった解らしきものは、仮説なだけであって、常に変わってしまう。ぼくは愛を証明しようと思う。ってタイトルみたいに証明しきれないの。できないの。

「自分」という存在自体が1分1秒ごとにかわるから、数式も途中で成り立たなくなるわけです。

つまりどんだけ頑張っても「解なし」で終わる。無限連鎖。その旅で見つかった自分の解は、すぐに証明不可になるでしょう。そしてまた自分探しの旅にでる。不毛なんですよね。探した気になってるだけ。

自分探しの旅は無意味だからしない

だから「自分探しの旅」なんてする必要ないんです。自分なんていない。これです。自分が思う自分と、他人が思う自分が混ざり合って「今ここにある自分」が出来上がるんんですよね。

我思う、故に我あり。

けど、死んだ後でも他が思ってくれていればそこに自分はいる。忌野清志郎さんはもういないけど、ぼくらが思っている限り存在は消えない。逆に他人から存在を認識されずに孤独でいても、自分がそこにいると思う限り、そこにいる。探さなくても、常に自分はそこにあるわけです。