人間は圧倒的に不平等なのになぜぼくらは平等に生きなきゃダメなの?

この24年間生きてきて今でもすんごい疑問なこと。それが「平等に生きるってなに?なんでそうせんとあかんの?」ということ。

いやね基本的にぼくら人間はなにも考えずいきると学校通って就職してっていう画一的なライフスタイルをたどることになるわけで。で、そこには「社会のルール」なるものが存在する。で、そのルールは常に一定のラインに敷かれていて誰もがそこにあわせていきることとなる。

例えばそのルールは「勉強はこうすること。始業はこの時間厳守。この点数とれないと赤点」とかそういうの。そこにぼくらは平等に合わせないといけない。これってなんかすんげーおかしくね?って思うわけ。

人間は圧倒的に不平等な生物だってこと

ぼくら人間は「模範的に、そして平等に」いきることを強いられるけど、その前にぼくら人間は圧倒的なまでに不平等に作られているという前提がない。

世の中には生まれた瞬間勝ち組な人もいれば、なにもしてないのに生まれた瞬間負け組な人もいる。家柄が金持ちで、運動勉強もできる、かつ背も高くイケメンで、健康状態も良好….なんてパーフェクトマンは実際にいる。

逆に不慮の事故で家庭は貧しく、運動勉強は普通。イケメン?なにそれおいしいの?背は低め。体弱い。なんて人もいる。ちなみにぼくはいえは普通の一般家庭。親は公務員。勉強はできる。運動は平均よりちょいできる。顔はイケメンになりたい。背は160㎝に0.4㎝届かない。体は弱すぎて吹いたら飛んでいく…というスペックだ。

不平等なのに「社会」に属すると平等を強いられる謎

人間は生まれながらにしてそもそも論として不平等で、かつそこからたどる人生も圧倒的に不平等にできている。ようは不平等の塊がぼくら人であり人生であるのよね。

でもひとたび「社会」というところに出ると、そこにはみんな守って当たり前!とドヤ顔してる「ルール」なるものが存在して。で、ぼくらはどんな状況であれどんな出生であれそれに合わせて生きなきゃダメになる。

学習方法を選べない

基本的に日本の勉強スタイルは「机と紙とペン」だよね。教科書っていう文字要素の多いものを使い、先生は黒板に文字をならべてそんでぼくらはノートにそれを写して勉強する。

これってなんとなくぼくらは普通って考えてるけれど、実は圧倒的不平等なんだよ。

人には認知特性ってのがある。

ぼくらはそれぞれなにかを認知するのに差があるんです。写真のようにイメージで覚える人もいれば、映像で覚える人もいる。文字で記憶する人もいれば、音で記憶する人もいたりする。それはうまれながらの特性だったり、育った環境で変わるんだけど。

ここで考えて欲しいのは「じゃあイメージで記憶するのが得意な人は文字ばかりの学校の勉強方法でフルパワーだせんの?」ってこと。

学校の勉強は「ほぼ文字」だよね。ってことは、文字で記憶する人が圧倒的に強いわけですよ。ってことはその時点で学校の勉強方法は不平等なわけ。

なぜ紙とペンしか使っちゃダメなの?

学校にスマホやiPad持ってって、それを使って勉強したら怒られますよね。スマホにBluetoothのキーボードつないでそれでノートとったりするのはダメなんだろうか?スマホの録音機能で音声とって、自宅でそれをまとめなおす…っていう勉強方法はダメなの?

スマホで黒板をパシャりととって覚えるのはダメなの?

もし難聴の人がいたら、先生の声はリアルタイムでは聞き取りづらいはず。だから録音してあとで聞き直すってのは合理的なわけじゃん。でも授業中にスマホ=ダメっていう謎のステレオタイプで行動してる教師も多い。

ぼくが高校生のころ、先生の書いた図を書き写すのがめんどくさかった(というかうまくできなかった)のでケータイのカメラで図をパシャったら激怒された記憶がある。でもこれって「勉強のために効率いい方法をやった」ってだけなのに。こうやって「自分のやりやすい勉強方法を否定される」ってケース、多いんじゃないかなあ?

朝が弱くて仕方がないのに、朝の時間を守らないといけない

朝スパーン!と起きれる人もいるんだろうけど、朝がどうしてもダメだああって人もいるでしょ。でも社会は9時って決めたらそれを守らないと悪としてくる。そういうの守れないと、別に犯罪やったわけでもないのに劣等生っていわれる。ゴミ社員っていわれる。なんでよ?

朝起きれる体質のやつと、起きれない体質のやつだったらどう考えても朝起きれるやつのほうが有利じゃんね。

体が弱かろうと、同じ生活リズムを強要される

社会のルールは健康な人が常に有利になっていて、体が弱い人はそれについていけず必然的に劣等生になったりする。

マラソン大会ではどうしてもピンピンしてる人が上位に入って賞賛される。で、成績もよくなる。でもぜんそく持ちだったりしてもよほど重篤でない限り休めない。で、休めないとなるとピンピンしてる人と同じスタートから同じ距離を走ることとなる。

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ぼくらの生きてる世の中は「平等」という仮面をかぶった「不平等」の塊だ

こんな感じでぼくらの世界は平等という名の圧倒的な不平等の上になりたってるんだよね。不平等という名の平等にあわせないとダメってなる。

この平等とされるラインは、すんごく不平等なんだよ。ほんと。

平等の上と下の格差

例えば平等っていうラインがあったとします。で人間はその上か下にそれぞれ配置されています。この構図がすでに不平等の極みなんですよ。

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この図でいうと下の層は、平等とされるライン(0ライン)の下にいる人ね。要は「ディスアドバンテージ(欠陥)」を持ってる層。で上が「アドバンテージ(ギフト)」を持ってる層。この平等とされるラインに行くには下の層にいる人らはマイナスをまず0に持っていくプロセスを通らないといけません。

例えば朝が弱すぎる体質であれば、それにどうにか修正するかしないといけない。例えば病気がちな人は病気という状態で0ラインに合わせないといけない。

ぼくを例にすると…

ぼくを例とすると、ぼくは生まれつきアトピー性皮膚炎と、アレルギー界の権威ある先生に「アレルギーのお化け」とたとえられたほどのアレルギー体質を持っています。なんかね、普通の人の100倍らしいよ。

つまり、普通の人と同じ環境にいるようでもぼくにとっては地獄ということとなります。他の人がへっちゃらなホコリでもかゆくなるしくしゃみでるし、目もかゆくなる。もちろん、修学旅行なんて行ったら帰るころにはストレスで皮膚はぼろぼろになる。

皮膚の回復にエネルギー使うのか、いくら寝てても眠い。それでも朝は起きないといけない。… という状態。

で、そんな状態でも遅刻はダメ。修学旅行はいかないとダメ。みんなと同じように…となるわけ。この場合「持病でしんどくてしんどくて大変なのに普通の体の人に合わせないといけない」ってこと。つまりマイナスを無理やり0に合わせないといけなくなる。

それで苦しんでる人って多いんじゃないかな?

ギフトを持った人はそのままでいられる

逆に平等(0ライン)の上にいる人は「俺がルールだ理論」が通用する。そもそも平等のラインの上に存在するので、そこに合わせるのは簡単。障害はない。けれどギフトも持った人は平等のラインを引き上げることもできてしまうということ。

なぜなら彼らにとっての普通=普通以上だから。これは日本の政治家が基本坊ちゃん出身で、富裕層に有利な世の中になっていってるところから雰囲気つかめるはず。「え?これが普通ちゃうのん?」ってノリ。

世間一般の平等と呼ばれるラインっていうのは、こんだけ不平等でできているものだってこと。

本当の平等っていったいなんだ?

世間がいう平等ってのがいかの不平等の中にあるか?はかんじてもらえた?じゃあ最後に「ほんまもんの平等ってなんだ?」というところを書いていく。長いよねごめんね。

みんな違って、みんないいの実現

この言葉、どこかできくよね。みんな違って、みんないい。すっげーいい言葉。そうだよな。そうなんだよ。でもさ、現代のその言葉ってこうだよね。

みんな違って、みんないい (とはいえ普通のレベルはあるけど)

みたいな。みんな違ってみんなよくねーじゃんって感じ。でもこの言葉が本当に実現したらそれこそ平等な社会が訪れるよ。

それぞれの状態に合わせた選択肢を

そう。みんな違って、みんないいんです。もう一回。みんな違って、みんないい。っこテストにでるぞ。

そう、いまぼくらは「特定の常識的な側面からみたライン」にそぐわないと非常識だー劣等生だー社会不適合者だーなんて言われるのだけれどそれは違うんだ。たまたまいまの常識から編み出された普通や平等っていうものに本当にたまたまフィットしなかっただけなんだ。

そんでたまたまフィットしたひとらが優等生となる。ほんとうの平等とはそんなのじゃなくってそれぞれの状態や特性に合わせて取捨選択ができることをいうんだよ。

朝起きれないなら、夜間コースを

たとえば学校でも、朝起きれなくって仕方がないひと向けに夜間コースを設けたりね。どうせ夜なんて学校すっからかんなんだから作ってもいいじゃん。そしたら朝だったら遅刻してしまうひとでもこれるでしょ?

集団が苦手なひとには、通信を

どうしても集団が苦手だとか学校に通うことに適応できない。勉強は好きだけどってひともいる。そんなひとのために通信で勉強できる環境を整える。「学校にいくのが当たり前」ではなく、あくまで勉強する場所であるから、通うことを前提としない。

などなど、こんな感じで「どう考えてもみんな不平等に生まれてるから、それを肯定し、それぞれに合わせた選択肢を設け、選択できるようにして上下をつけないこと」なんだよね。

これができて初めてみんな違って、みんないい。の真意だよ。

不平等の圧倒的肯定。現代の平等の否定。これが本当の意味でできたとき「平等に生きる」の本質が見えて来る。そんな社会ができたら、なにも悪くない人らが理不尽に社会からはじかれることはなくなるんだけれど…

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